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古事記・日本書紀

アマテラスと太陽

さらに考えました

アマテラス以前の世界

 アマテラスが天石窟にこもり、世界は闇となりました。では、アマテラスが誕生する前も世界は闇だったのでしょうか。

 アマノウズメが踊る際に庭火を焚小-日本書紀-1-p77いたとあります。アマテラスが天石窟に入った後、確かに暗くなったようです。アマテラス誕生以前にも、火の明かりを使ったという記述があります。イザナキが黄泉(よもつくに)でイザナミの姿を見る場面です小-日本書紀-1-p45。イザナミがいた場所はかなり暗かったのでしょう。

 しかし、これだけでは世界が暗かったとはいえません。イザナミがいた場所は火を使わなければならないほど暗かったのは間違いありませんが、逆に言えば、他の場所は火を使わなくても問題がなかったということになります。

 アマテラスが産まれるのはこれよりも後のことです。世界はアマテラスがいなくても明るかったのです。いったい何が世界を照らしていたのでしょうか。

アマテラスは太陽か

 アマテラスと太陽との関係が問題となりそうです。天石窟にこもったのが原因で世界が闇になったとすると、アマテラスが太陽そのものだと考えることもできます。

 しかし、世界中を照らすほどの光をアマテラス自身が発していたとしたらどうでしょうか。恐ろしいほどの明るさです。すさまじい熱も発していることでしょう。まともに見ることも近づくこともできません。また、天石窟に入らずとも、建物の中に入るだけでもあたりは暗くなりそうですし、服装によってもその明るさに影響が出そうです。アマテラスが太陽そのものだと考えるのは無理があります。

 アマテラスの様子を輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照り輝いた小-日本書紀-1-p36と表現していますが、源氏物語の主人公を「光る源氏」というのと同じように、実際に光っているのではなく、光り輝くほど美しいという意味なのでしょう。

 ではなぜ天石窟にこもると世界が闇になるのでしょうか。アマテラスは日の神です。太陽に関わりがあるのは間違いありませんが、どのように関わっているのか、具体的なことは書かれていません。そこで少々詳しい記述のあるワタツミについて見てみましょう。

 ワタツミは海の神ですが、もちろん海そのものではありません。しかし、私は沖つ風・辺つ風を起し、速波を立てて小-日本書紀-1-p184とあるように、海に関わるものを操ることができるようです。もしこれと同様であるならば、アマテラスは太陽を操っていたと考えてもいいでしょう。つまり太陽の運行を司っていたのです。

 太陽はアマテラス誕生前からすでにあって、世界を照らしていました。ただ、その動きはそれほど規則正しくはなかったのでしょう。その動きに秩序をもたらしたのがアマテラスなのです。世界が闇に包まれたのは、アマテラスが天石窟にこもったからではなく、太陽の運行を止めてしまったからに違いありません。太陽の運行はアマテラスのみに委ねられていたということです。

その時、ツクヨミは

 国中がいつも闇ばかりとなり、昼夜の交代の別も分らなくなった小-日本書紀-1-p76とあります。これは少々気になる記述です。確かに太陽の無い昼はまるで夜の様でしょう。ですが、本当の夜になれば月が出てきます。昼も夜も同様に暗かったとしても、月が出てくれば少なくとも昼夜の交代の別がわからなくなることはありません。つまり、月も出てこなかったということになります。

 月の神はツクヨミです。アマテラスと同様に月の運行を司っていたはずです。ツクヨミが月を動かさなかった理由は何でしょうか。

 姉であるアマテラスに同調したのでしょうか。しかしそれは考えられません。ツクヨミは食物の神を殺したことでアマテラスの怒りを買い、昼夜を隔てて住むことになったのです小-日本書紀-1-p59~60。アマテラスに従うとは思えません。

 月は太陽の光を受けて輝いています。太陽が無くなってしまえば、月も見えなくなってしまうはずです。太陽と月が同時に姿を消すのは、たいへん理にかなったことだといえるでしょう。が、当時の人もこのように考えていたのでしょうか。もし考えていたとすればこれ以上言うことはありませんが、いちおう別の考えもあげておきます。

 ツクヨミは、月を動かしたくても動かせなかった。こうは考えられないでしょうか。太陽の通り道と月の通り道が同じだったのかもしれません。止まってしまった太陽によって進路をふさがれてしまったのです。こう考えれば、これもアマテラス自身が太陽ではないという証の一つになるかもしれません。