古典文学Graphics

古事記・日本書紀

カグツチを身ごもったイザナミ。

イザナミ

不用心な女神。
そしてカグツチ誕生。

 イザナキと共に様々なシマ(洲)や神を産んだイザナミは、火の神カグツチを産んだ際の火傷がもとで死に、黄泉(よもつくに)に行くこととなる。イザナキとの別れである。日本書紀 巻第一 神代上 第五段 一書第六小-日本書紀-1-p42

画像について

 火の神カグツチを身ごもっているイザナミです。その出産を境に、イザナキとイザナミの運命は、悲劇的な展開を迎えることとなります。

こんな風に考えました

カグツチの脅威

イザナミのゆくえ

 日本書紀の一書や古事記において、イザナミは火の神カグツチを産んだ時の火傷がもとで死に、黄泉に行きます。そして、そこを訪れた後のイザナキのみそぎがきっかけとなって、三貴子と呼ばれるアマテラス・ツクヨミ・スサノオが産まれます。これより後の物語に重要な役割を果たす三貴子の誕生のためには、イザナミの死が不可欠なものにみえます。

 しかし、日本書紀の正文ではイザナミは死にません。イザナキと共に三貴子を産んでいるのです。これを見ると、イザナミの死が三貴子誕生のために必要とは限らないということになります。

 なぜ、イザナミは死ななければならなかったのでしょうか。

 正文にも、不審な点があります。国造りなどを全て終えたイザナキが淡路国に身を落ち着かせたことは明記されているのですが、イザナミのゆくえが書かれていないのです。いつの間にか、物語の舞台から消え去ってしまうのです。

 つまり、正文でも一書でも、また古事記でも、イザナキとイザナミは別れてしまうのです。イザナキはずっと物語の中にいます。イザナミがそこから遠ざけられてしまったともいえます。これは不思議なことです。二神は国を造り神々を産んだ重要な神です。別れる必要があったのでしょうか。黄泉でのイザナミの恐ろしい姿が描写されていますが、重要な神のそのような姿をなぜ記さなければならなかったのでしょうか。そのようにしてまでもイザナミを表舞台から下ろさなければならない理由があった、そう考えないわけにはいきません。

結婚式での失敗

 高天原(たかまのはら)からオノゴロ島に降りたイザナキとイザナミは、オノゴロ島そのものを柱と見立ててそのまわりを回り、互いに言葉を掛け合います小-日本書紀-1-p25~26。その言葉とは、「ああうれしい、よい男に会えて」とか「体はどうなっているのか」など、今まで一緒にいた者同士が掛け合うものとしては不自然に思えるものです。これはおそらく、夫婦となる儀式、つまり結婚式と考えていいでしょう。高天原で他の神々によって行われていたその式を、二神はオノゴロ島で再現したというわけです。

 それぞれの行動や言葉にどのように意味があるかはわかりません。しかし、ここでのそれは単なる形式的なものではなく、現実に影響を及ぼすものであったようです。式の手順を間違えてしまったために、最初の国産みに失敗するという記述があるからです。

 間違えたのはイザナミです。柱を回ったあと、先にああうれしい。よい少男に遇ってと声を出してしまうのです。イザナキが美しかったので、思わず、といったところかもしれません。もしかすると、儀式の影響を深く考えていなかったのかもしれません。いずれにしても不用心なことです。

不思議な一書

 第四段一書第十は不思議な一書です。

一書に伝えていう。陰神がまず唱えて、「おやまあ、いとしい少男よ」と仰せられた。そうして陽神の手を握って、ついに夫婦となり、淡路洲を生んだ。次に蛭児。小-日本書紀-1-p35(陰神はイザナミ、陽神はイザナキのこと)

 これで全てです。この短い一書が記されている意味はいったい何でしょうか。

 ここに、目新しい情報はほとんどありません。淡路洲も蛭児(ひるこ)もその前ですでに述べられています。ただ、陽神の手を握ってという描写はそれまでにはありません。これによって、イザナミの性格に積極的という要素が加えられたのです。

 不用心で積極的な美しい女神。なにか問題の起こりそうな雰囲気があります。そして、本当に問題が起こってしまったようです。

火の神カグツチの誕生

 イザナキとイザナミが別れるきっかけとなったのは、カグツチの誕生です。これが、イザナミが遠ざけられた原因をつきとめる手がかりとなるかもしれません。

 カグツチは火の神です。しかし、その誕生前から火はあったのではないかと思われます。高天原での太占(ふとまに)という占い小-日本書紀-1-p30が、鹿の骨を焼いた際のひび割れで判断するものだとしたら、当然火を使ったはずですし、イザナキはカグツチが産まれて間がないのにもかかわらず、黄泉において手慣れた様子で火を扱っています小-日本書紀-1-p45。おそらく高天原で火を使いなれていたのでしょう。

 イザナキは黄泉であたりを見るために火を必要としました。つまり、そこには明かりがなかったのです。高天原とは違い、地にはまだ火がなかったということになります。

 火は生活に不可欠のものです。また兵器に用いることもできる、たいへんに重要なものです。地上での火の神誕生は、地上に火がもたらされたということを意味します。天神にとって、それは望ましいことではなかったのかもしれません。

 この頃の地上は恐ろしい場所です。葦原中国はもとより荒れた国であり、磐石や草木に至るまですべて強暴であった小-日本書紀-1-p103り、蛍火のように妖しく光る神や、五月頃の蠅のようにうるさく騒ぐ邪神がいた小-日本書紀-1-p111りしたのです。そして、天と地とは、スサノオが天に昇っていくことからもわかるように小-日本書紀-1-p63、まだ、天浮橋(あまのうきはし)を使って行き来ができていたのです。火の力を手に入れた地上の神々が天に来ることを天神たちは恐れたに違いありません。

 カグツチが産まれた後のイザナキの行動はすさまじいものです。たった子供一人と、我がいとしい妻とを取り替えてしまったよ小-日本書紀-1-p43と言って号泣し、ついにはカグツチを斬り殺して、その体を三つに分けてしまうのです。

 愛する妻の死の原因になったとはいえ、自分の子をそのようにしてしまう事などできるものでしょうか。異常とも思える行動です。しかし、もしそれが自分の子ではなかったとしたらどうでしょうか。さらに、それが地上にいてはいけない存在だとしたら。それらはイザナキにそのような行動をさせた理由となるでしょう。カグツチが天にとって恐るべき存在であることを、イザナキは理解していたのです。

 カグツチがイザナキの子でなかったとしたら、いったい誰の子なのでしょうか。火を手に入れることが地上側の望みだとしたら、地の神との関わりを考えないわけにはいきません。ばらばらにされたカグツチの体が山の神に変わるという描写小-日本書紀-1-p51も、地とのつながりを感じさせます。

 この山の神はのちの物語にも関わってくるのですが、それについては、「疑惑――ヒコホホデミの父」のページで考えています。

イザナミと三貴子と

 イザナミは、地上にもたらしてはいけない火の神を産んでしまい、それがきっかけで、イザナキから遠ざけられたのです。地の神との関わりが三貴子の母親としてふさわしくないと判断されたのかもしれません。

 しかし、本当に三貴子とイザナミとは関係がないのでしょうか。「みそぎ」のページの「記述はあるか」でも考えたように、三貴子の母親がイザナミから産まれた可能性があるのです。イザナミは姿を消したあとも、物語に大きな影響を与えているのかもしれません。