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古事記・日本書紀

イザナキ、イザナミに離縁を告げる。

コトドワタシ

イザナキ離縁を告げる。
はたして死の起源は語られたのか。

  • 靫:矢を入れる道具。

 火の神カグツチを産んだことによって焼け死んだイザナミを追って、イザナキは黄泉(よもつくに)に入る。妻の姿は変わり果てていた。それを見られたことを恨んだイザナミは、ヨモツシコメを遣わし、夫を捕らえようとする。イザナキは逃げ続け、やがて千人所引の磐石(ちびきのいわ)をもって黄泉との境をふさぐ。磐石の向こうに立つイザナミに、イザナキは離縁の言葉を口にする。コトドワタシである。

 それを聞いたイザナミは「あなたの国の人民を一日に千人殺しましょう」と言い、イザナキは「それならば、私は一日に千五百人を産もう」と応える。日本書紀 巻第一 神代上 第五段 一書第六小-日本書紀-1-p45

画像について

 人間が千人がかりでようやく動かせるほどの大岩、つまり千人所引の磐石を山の上から落としたイザナキが、離縁を告げる場面です。岩の向こうには変わり果てた姿のイザナミがいるはずです。

 足下に広がっているのは森です。木々は全て普通の大きさです。イザナキが圧倒的に大きいのです。

こんな風に考えました

巨大なイザナキ

 イザナキは巨大です。千人がかりでようやく動かせるほどの岩をたった一人で動かしたのですから。これよりも前に、イザナキが大きな木(原文は大樹)に小便をしてそれが大河になるという描写もあります。

 しかし古事記には、逃げるイザナキが桃の実を三個取って迎え撃つ小-古事記-p47と書かれています。これではとても巨大とは言えません。桃の実を三個という描写が、人間と同じ大きさであることを強調しているようにさえ思えます。巨大なイザナキにとってはけしつぶにも満たないほどの実を、千人力もある大きな指で三個だけとって投げつけるというのは、とても不自然だからです。

 この場面があるのは古事記だけではありません。イザナキは日本書紀の第五段一書第九でも桃を投げているのです小-日本書紀-1-p55

さて、道のほとりに大きな桃の樹があった。そこで伊奘諾尊はその樹の下に隠れて、その桃の実を採って雷に投げつけられたので、雷どもはみな退き逃げた。小-古事記-p55

 一見、古事記と大差ないようにみえます。しかし、ここでイザナキは大きな桃を投げたとなっています。ただの桃ではなく大きな桃です。そう書かれている以上、イザナキを人間と同じ大きさとする必要はありません。原文を見ると大桃樹となっていて、先の大樹と同様の印象を受けます。イザナキはやはり巨大なのです。

巨大な神々

 イザナキが巨大なら、イザナミも巨大です。古事記にも先の一書第九にも、イザナミの体の上に八つの雷がいたと書かれています。天から落ちる稲妻が体中にあることを考えると、その大きさはイザナキ以上にも思えます。もちろん、「そこまで大きくはない」でも考えたように、物語が成り立たなくなるほどの大きさではありませんが。

 アマテラスが武装する場面小-日本書紀-1-p63では、千本の矢が入る靫(ゆき)と五百本の矢が入る靫とを背負っています。これは合わせて千五百本の矢を背負っているというのではなく、人間の使う大きさの矢がそれぞれ千本と五百本も入る巨大な靫を背負っているということでしょう。アマテラスも巨大です。

 この他にも、死んだ食物の神の頭に牛と馬ができるという描写や小-日本書紀-1-p60、巨大なヤマタノオロチをスサノオが退治する場面もあります小-日本書紀-1-p93。イザナキ以外にも巨大な神がいるのです。

死の起源

 そのようにおっしゃるならば、私はあなたがお治めになる国の人民を一日に千人縊り殺しましょう小-日本書紀-1-p47そのようにおっしゃるならば、私は一日に千五百人を生もう小-日本書紀-1-p47

 コトドワタシの後のイザナミとイザナキの会話です。これは人間の死の起源を表していると考えられるところです。非常に重大な場面です。しかし、このあと物語はその事についてはそれ以上語らず、イザナキが身につけていた物を投げて神々を産むという場面に進んでしまいます。人間にとって非常に重大なことであるにもかかわらず、ずいぶんとあっさりしています。

 これよりも前に、こんな場面があります。イザナキが櫛を折って火をともし、変わり果てたイザナミの姿を見るというものです小-日本書紀-1-p45。そしてその後にはこのように書かれています。

これが今世の人が、夜、一つ火をともすことを忌み嫌い、また、夜、投げ櫛することを禁忌とすることの由縁である。小-日本書紀-1-p45

 このように、ある出来事が当時の習慣などのもとになっているという説話があちこちに見られます。古事記のように、先のイザナミとイザナキの会話の後にこういうわけで、この世では一日に必ず千人死に、千五百人生れるのである小-古事記-p49といった言葉があればいいのですが、日本書紀にはありません。

 日本書紀において、この場面は死の起源を表してはいないのです。決定的なのは、ここよりも後にはっきりと死の起源が書かれていることです。

 国神(くにつかみ)の娘が現世の人は、木の花のようにたちまち盛りが過ぎ、生命が衰えてしまうでしょう小-日本書紀-1-p142と言い、それが人間の命の短い由縁だと記されているのです。

 イザナキとイザナミの場合は、むしろ喧嘩の際の“売り言葉に買い言葉”といった風に思えます。

 「そんなことを言うなら、あなたの庭に咲いた花をむしっちゃうわ」、「かまわないよ、どうせまた生えてくるし」といった感じです。