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古事記・日本書紀

高天原と星

さらに考えました

星がじゃまする

 第九段の正文の中の一云に、次のような記述があります。

二神はついに邪神と物を言う無気味な草・木・石の類を誅伐して、すっかり平定し終えた。唯一従わない神は、星の神の香香背男だけであった。そこで、また倭文神の建葉槌命を遣わすと、この神も服従した。それで、二柱の神は天に昇ったという。小-日本書紀-1-p119

 二神とはフツヌシとタケミカヅチのことです。香香背男はカカセオと読みます。

 上の記述は、フツヌシとタケミカヅチが地上を平定したあと、高天原(たかまのはら)に帰る際に、星の神のカカセオがじゃまをしたということになるでしょう。

 また、第九段一書第二には、次のような記述があります。

二柱の神は「天に悪神がいます。名を天津甕星と言います〔またの名は天香香背男と言う〕。どうかまずこの神を誅して、その後に降って葦原中国を平定いたしたく存じます」と申しあげた。小-日本書紀-1-p133~134

 二柱の神とは上記と同じくフツヌシとタケミカヅチのことです。天津甕星はアマツミカホシと読みます。

 ここでは、地上の平定を命じられた二神が、カカセオがいるので地上に降りられないということを天神に訴えているのです。

 これは奇妙な記述です。星は宇宙空間にあって、何よりも高い位置にあります。高天原と地上との間には影響を及ぼさないはずです。図示すると図1のようになります。フツヌシとタケミカヅチの天降りや帰還にはいっさい関わりがないはずです。

 しかし、星が宇宙にあるというのは現代の知識です。その知識があったとしても、星は天の平面上にあるように見えてしまいます。日本書紀が書かれた当時の人たちにとってはなおさらでしょう。彼らは、星は天よりも下にあると考えていたのではないでしょうか。

 だとすれば、星は図2のような位置にあったということになります。二神にとってはかなり面倒なことになりそうです。カカセオにしてみれば、その場所にいたからこそ、二神をじゃますることができたというわけです。

 「オノゴロ」のページで考えたとおり、青空を大地とした上に高天原があるとしてよさそうです。上記の考えを当てはめれば、星は高天原の大地の下を動き回っていたということになります(図3)。

図1
図1 自由な往復
図2
図2 星がじゃまする
図3
図3 高天原・星・地上の概略図

二柱のアマテラス

 上記の考えにはまだ大きな問題があります。それは太陽の位置についてです。

 見た目では、太陽や月も、星と同じ平面上にあるように感じられます。当時の人々がそれをそのまま受け入れていたとしたら、高天原では、太陽が下から照らすということになってしまいます。これは明らかに不自然です。

 第七段一書第三に、スサノオが高天原から追放されて地上にくだっていく場面があります小-日本書紀-1-p87。そこには、その時に雨が降っていたと書かれています。雨が降っていたということは、高天原の上にも空があるということです。空があるならば、高天原を照らす太陽がそこにあったと考えてもいいでしょう。

 しかし、それでは、高天原用と地上用との二つの太陽があるということになってしまいます。それは不自然ではないのでしょうか。

 神功皇后の巻に、興味深い記事があります。アマテラスには荒魂(あらみたま)というものがあるようなのです小-日本書紀-1-p418

 複数の魂をもっている神々については、アマテラスの他にもいくつかの記述があります。その神々は、魂それぞれに別々の体があり、しかも別々の名前をもっています。それならばもう別の神とした方がいいのでは、と言いたいところですが、どちらも同じ神のようなのです。

 アマテラスは太陽の神です。「アマテラスと太陽」のページで考えたように、太陽の運行を司っていました。もし、アマテラスの荒魂がアマテラスとは別に存在し、かつ同じ役割を担っていたとすれば、その神は、もう一つの太陽を司っていたということになるでしょう。太陽は二つあったのです。

 高天原を照らす太陽を司っているのがアマテラスで、地上を照らすのが少々荒々しい荒魂と考えていいかもしれません。